【Mummy-D×KOHEI JAPAN】遊女の生き様と色街の歴史 大河ドラマ『べらぼう』で大注目の吉原遊郭跡潜入レポート
Mummy-D&KOHEI JAPANの遠い目症候群#09
■遊女たちが縋った吉原神社と九郎助稲荷
(by Mummy-D)
大門のあたりが今現在も一番ディープなゾーンだからね。そこで働いてる人の迷惑になっちゃあいけません。ノーメイクでお願いします。
一行さらに奥へと足を伸ばします。と言っても本当に狭いエリアなので「江戸新吉原耕書堂」から目と鼻の先にある、吉原神社へ。新吉原にはドラマにも登場した九郎助稲荷を始めとする稲荷神社が、郭の四隅と入り口付近に祀られ、郭外に出られない遊女たちの信仰を集めたと言われます。明治になって合祀され、吉原神社となりました。九郎助稲荷は今でも縁結びの神様として祀られていますが、当時の遊女たちはいったいどんなことを願い祈ったんかなあ。いつか遊郭を出る日のことか、素敵な旦那に身請けしてもらうことか、地元に残した両親のことか。遠い目です。

撮影:Mummy-D
実際に九郎助稲荷があった場所にも行ってみたけど、なんの変哲もないフツーの街並みに、最近できたと思しき案内板がポツンと。狐につままれたような気分ですが、それでもここが吉原遊廓の端っこであったかと思うと、感慨深し。
■関東大震災の悲劇と鎮魂の祈りを今に伝える弁天池
(by KOHEI JAPAN)
次に我々は吉原神社の末宮・吉原弁財天の境内にある弁天池へピットイン。ここは元々湿地帯で、遊郭造成の際に埋め立てられた。池の一部が残って弁天祠が祀られるようになり、吉原で働く人々や、近隣住人の憩いの場だったそうな。
そんな折、吉原に悲劇が起きる。大正12年の9月1日関東大震災である。塀で囲まれた郭内に、遊女屋(当時は貸座敷)がひしめいていたのだから、当然大きな被害が出た。倒壊した建物から出火し、炎は瞬く間に町中を包む。圧死を免れた人たちは熱風を避けようと、廓内唯一の避難地と信じられていた花園公園の弁天池に殺到。しかし、炎や煙が容赦なく襲いかかったため、次々と池に飛び込み、遊女や関係者含め490人もの死傷者が出てしまったという。
※弁天池での死者数には諸説あります。
境内に入ると当時の弁天池の惨状の写真や新聞記事などが掲示されている。池は昭和34年に埋め立てられ、境内に、犠牲者を弔う観音像とともに小さく名残を留めている。法要は毎年執り行われ、2023年、100年目の法要に合わせて弁天池の改修工事を進め、新たな吉原の名物にしようと滝を設置。今後は暗いイメージを払拭し、江戸時代のような華やかさを発信していきたいと尽力している。悲しい過去があっても、それを忘れず未来へと進む、吉原という町の逞しさを感じながら、遠い目をメイクさせていただいた。吉原散策の際には必ず立ち寄っていただきたい。

関東大震災の犠牲者の慰霊のために造られた観音像。
その後、奥にある吉原弁財天へ。歌舞音曲芸能の神さまにお参り。『ラップが上手くなりますように』とシンプルな願いを込め、境内からピットアウト。そして我々は、向かいにある遊廓専門書店「カストリ書房」に吸い込まれてゆくのであった。
■吉原とはどういう場所だったか? その光と陰を見つめる意義
(by Mummy-D)
短い旅ではありましたが、今回ほど「遠い目」になる取材はありませんでした。あの花魁たちがしゃなりしゃなりと闊歩した通りが道幅もそのままに、全くフツーの街(でもないか笑)としていまだにそこに存在するのですから。コンビニとかあるし。想像よりあまりに狭いその「異界」は、同じく完全に市街地に埋没した、長崎の出島に近いものを感じました。
文化としての吉原、今に続く悲劇としての遊郭、性風俗産業。光と陰、そのどちらもそのパーセンテージのまま、現代に生きる私たちがしっかり受け止めることこそ、未来につながることなんじゃないかなあ。
連載開始以来初めてマシなことを言ったオレらに、おそらく読者様の全てが「遠い目」をメイク笑。それにしても色々と考えさせられた、短くも充実の歴史散歩でありました。

かつて多くの遊女と客、遊郭関係者、そして蔦重も歩いたであろうメインストリートを振り返って遠い目。